こんにちは、黒田です。
前回の記事にて、確率についてのご質問に回答いたしました。これに対して、さらに議論を掘り下げるご質問を、再度いただきましたので、下に掲載するとともに、今一度私の考えを述べたいと思います。
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わざわざ記事を一本執筆いただきありがとうございます。
ご指摘のように,私には
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1.無限回試行を行った際に収束する相対頻度
2.これから行う試行における可能性・確からしさ
3.既に行った施行における可能性・確からしさ
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のうち,2と3を分ける理由(意義)がわかりません。
すなわち,試行自体(あるいは客観的には試行が確定した瞬間)との時間的前後関係によって,確率と論じることの受容度が変わりうるというところがです。
※もちろん「この学問はそういうものである」と言われればそれまでなのですが・・・。
私は,本質は「情報」であるような気がしていて,「情報」で分類する方が適切(実務的に有用)であるように感じます。次のような理由(例を考える)からです
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ダイスに十分な運動量を与えて完全防音の部屋に投げ込み,同時にドアを閉めるとします。
この場合部屋の外にいる人間Aにとって,ダイスがとまっているか,運動し続けているかわからない期間があります。この期間をどう扱えばよいのかが難しい気がします。
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逆の例としては,
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非常に高度な目と計算力をもった化物B(ラプラスの悪魔のようなもの)にとっては,人間Aがダイスを投げ出した(もっといえば投げようとした)瞬間に,どの目が出るかを知る(計算できる)はずです。
化物Bにとっては,もはや試行自体がどの瞬間であったのか?ということが議論になりそうです。
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つまり「客観的には試行が確定した(結果の確定)」ということに任意性(議論の余地)があるように思うのです。
この議論を回避するには「情報量」で分類するのが私にはすっきりして見えます。
※私が自分の議論を自然だと感じる理由でしょうか・・・。
例としては↓のようになります。
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ダイスの『1がでる』確率について
1 【ダイスが投げ出された直後】
・情報量が少ない(「6面」ダイスであることしか知らないし,ダイスの運動量や回転量を見分けることもできない)人間Aにとっては,1/6
・高性能カメラと解析ソフトを積んだコンピュータCの計算を示したディスプレイを見つめる人間Dにとっては,(1か2か3までは絞られているので)1/3
・すでに計算を終え「2」が出ると結論を得ているラプラスの悪魔にとっては0
2 【ダイスが2の目を上にして止まった直後】
・止まる瞬間を見ていた人間Aにとっては0
・まだ表示が更新されないディスプレイを見つめている人間Dにとっては1/3
・ダイスの目に興味をなくし別のものを見ているが,計算結果を忘れてはいないラプラスの悪魔にとっては0
3 【1年後】
・ダイスが6面であったこと以外を忘れた人間Aにとっては1/6
・コンピュータCに保存された動画を見ている人間Dにとっては0
・現在の宇宙の状態から計算(時間を逆にさかのぼった計算)をしたラプラスの悪魔にとっては0
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でいいのではないかと思います。
↑の例で
「【1年後】の部分は,試行が確定しているのだから確率で論じる意味がないという立場(2の立場)をとる」ことの意義(あるいはそうしないと生じる不都合)がわからないのです。
例によるのかもしれませんが。。。
(またもや)長くなりましたが,「不都合の例」があれば教えていただけるとありがたいです。また「試行の確定」に関する数学的な定義があればそれも知りたいです。
※「1の立場」についてはスルーしてしまっていますが,取り急ぎ↑の内容が気になったので。すみません。
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まず、
ご指摘のように,私には
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1.無限回試行を行った際に収束する相対頻度
2.これから行う試行における可能性・確からしさ
3.既に行った施行における可能性・確からしさ
================
のうち,2と3を分ける理由(意義)がわかりません。
すなわち,試行自体(あるいは客観的には試行が確定した瞬間)との時間的前後関係によって,確率と論じることの受容度が変わりうるというところがです。
の部分について。これは私見であり、学問的に正確かは保証しかねますが、「2」と「3」を区別するもっとも大きな理由は、「3」の立場をとることでベイズの定理が使用可能になることだと思います。ベイズの定理は、ごく単純化していえば
事前確率×データ=事後確率
と表記できます。これを運用するうえで、「確率」に関して「3」の立場を認めないと非常に都合が悪いことになります。医療分野において、ベイズの定理が汎用されるものとして診断が挙げられますので、これを例にします。ある患者の診察をしている医師が、問診や身体診察の結果としてその患者は細菌性肺炎である可能性が高いと考えているとします (病気自体はなんでもいいのですが)。そこで、より診断を確かなものとするために、何らかの検査を行います。
このとき、事前確率は検査前の段階で医師が考えている細菌性肺炎の確率、データは検査結果となります。行う検査は胸部X線写真でも血液検査でもなんでもいいのですが、ともあれしかるべき感度・特異度をもっていることは共通していえます。そのため、検査を行うことで事後確率をより確からしいものとすることができるわけです。
ここで、患者について考えます。医師の待っている診察室に入ってきた段階で、この患者が細菌性肺炎であるか、そうではない (別の病気である、または病気ではない) か、はすでに決定しています (でなければ、受診しようと思った理由が説明できない)。つまり、患者に症状を引き起している病気が何かを探り診断する一連の行為は、「すでに試行が完了した事象の確率を推定する」ことといえます。仮に「1」または「2」の立場をとるならば、こうした思考自体ができません。
つまり、「3」は「確率」をベイズ流に解釈する立場です。前回の記事、そして上での診断の例でお示しした通り、こうした「確率」の解釈は我々の日常生活においてはむしろ普通であり、だからこそ幅広い対象に「確率」という言葉を、いわば無頓着に使用しても大きな問題が生じないといえます。この場合の「確率」は、「主観的確率」と呼ばれることもあります。
対して、「1」はいわば「頻度論的な」立場です。統計学の歴史においては、こちらの方が「確率」の解釈としてはどちらかといえば主流派で、ベイズ流の「3」はむしろ異端な考え方だったといえます。こうした「確率」における立場「1」と「3」の対立、いい換えれば頻度論的解釈とベイズ流解釈は、例えるなら政治における保守とリベラルのようなものと位置付けられます。まず、これらの2つの立場が両端にあり、その中間がある構図です。この場合、中間にあたるのが「2」の立場です。
質問者のご指摘のように、
「客観的には試行が確定した(結果の確定)」ということに任意性(議論の余地)がある
は、測定機器の技術的進歩などの要因によって生じうるある種哲学的な観点です。あるいは、微小時間で考えれば試行の開始・終了の区別も曖昧となり、結果的に「2」と「3」の立場の違いは限りなくゼロに近づくと考えられます。しかしながら、「1」の頻度論的な立場、すなわち相対頻度に対してしか「確率」という言葉の使用を認めない厳格な立場は、それ以外の「2」および「3」とは明らかに性質を異にしています。これに対し、「2」と「3」の区別はある意味で流動的・量的なものです。
つまり、大きくは「1」と「それ以外」の区別がまず重要であり、「それ以外」の中身である「2」と「3」の区別はあまり重要ではないといえます。ともあれ、診断の例をはじめとし、ベイズの定理を用いた各種方法論は多くの分野で汎用されており (薬学においては、population pharmacokineticsなど)、これらを使用するならばやはり「3」の立場を認めないと都合が悪いと思います。私が前回「2」の立場を記載・説明した意図は主に2つあります。1つ目は、つい先ほど述べた頻度論的な確率の解釈と、ベイズ流の解釈との相違点を明確にしたかったこと。2つ目として、例えとしては不正確だと思いますが、「シュレディンガーのネコ」の思考実験がある種のパラドックスと捉えられているように、既決事項に対して「確率」を考えることが適切か否かは、人によって感じ方が異なります。そのため、両者を区別したかったことです。
長くなりましたが、要約すれば質問者が
2と3を分ける理由(意義)がわかりません。
と考えるのはむしろ自然なことです。それは、「試行とは何か?」を突き詰めれば、両者を峻別することが困難になるからです。したがいまして、
「試行の確定」に関する数学的な定義があればそれも知りたいです。
については、少なくとも私は存じません。しかしながら、質問内にあった密室でのダイスの例や時間経過を伴う試行の例、あるいはダイスを振ってある目が出たが、その直後に近くの道路をトラックが通過したために机が揺れて目が変わった場合どう考えるか?などを考え合わせれば、数学的な定義づけは事実上困難であると思われます。
取り急ぎ、返事のみにて。